100年の歴史秘話
主な登場人物
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岩田あい子社長
創業者の孫にあたり、祖父や父の仕事ぶりに触れながら育つ。2014年から現職。思いがけぬ社長交代劇の波乱から、歴史ある岩田造園土木の再建に尽力して守り抜き、いまに至る。
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創業者
岩田酉蔵 -
二代目社長
岩田勝之助 -
岩田滋基常務
1954年、地元荒川区生まれの岩田あい子社長。岩田造園土木は大正5年(1916年)に祖父の岩田酉蔵さんが植木職人として始めたご商売を前身としているそうです。1916年は、開催予定だったベルリンオリンピックが第一次世界大戦によって中止になった年です。日本で25歳以上の男子に選挙権が与えられる9年前ですから、岩田造園土木は、そのような時代から続く企業です。庭師としての腕を買われたお祖父さまが土台をつくり、引き継いだお父さまが拡げて、都内でも有数の造園業者として知られるようになったといいます。ただし100年企業は常に順調ではなく、大きな波乱も経験しています。歴史を知る岩田社長が、会社の知られざる歩みとファミリーヒストリーを語ります。
インタビュアー
小林奈穂子(みつばち社)
ふたりのユニットで活動するみつばち社の1号。みつばち社の専門はコミュニケーションデザインで、岩田造園土木のWebサイトも手がけている。
悔しさを原動力にした初代、
植物の専門家も一目置いた二代目
創業者であるお祖父さまのことは記憶されていますか。
覚えてますよ。そんな時代ですからね、祖父は10歳で「小僧」として親戚の植木屋さんに出されたんだそうです。まだ子どもですし、親戚の家でしたから、「お風呂だよ」と耳にして、入っていいものだと思って入ったそうなんです。そしたらそこの主人がひどく怒って、「小僧のくせに!」と蹴飛ばされたと、悔しくて悔しくて、「いまに見てろ」と思ったと、この話は祖父から何度も聞かされました。
10歳で…。お孫さんに繰り返し話して聞かせるとは、よほど強烈な思い出だったんでしょうね。その悔しさを原動力に頑張ったんですかね。
そうなんだと思います。成長して、独り立ちしたのが大正5年、庭師として評判になってようで、当時の華族の家にも出入りするようになったそうなんですね。そこで官公庁の仕事も紹介されたようです。
腕が良かったんですね。御社が公共事業を手掛けるようになった起点はそこですか?
そのようですね。ただ、本格的に開拓したのは父の代になってからです。父は祖父とはまた違うタイプでしたが、仕事に対して精力的だったところは共通してますね。父は役所でもまったく臆することなく、決裁権を持つ人のところまで突き進んで行くような人でした。
熱血営業マン?
そうなんですが、一方では学者肌というか。
というと?
これがもう、異常なほどの植物好きで、なにかっていうと植物採集をしていました。植物と名がつけばなんでもいいくらい、ありとあらゆる種類をです。
そうなんですか。職業柄というか、庭師だったお祖父さまの影響ですか?
いや、たぶん生まれながらの植物好きでしょうね。いつでもビニール袋と新聞紙を持ち歩いていて、家族で旅行に出ても植物採集ばかり。父は戦争に行っているのですが、赴いた樺太が戦地にならなかったので、そこでも植物を採集して持って帰ってましたからね。
えええ。それは確かに、ちょっといなさそうなレベルの…。
「樺太には平地に高山植物があるんだ」と、家で語ってましたよ。本当は研究者になりたかったのかもしれませんね。知識は専門の研究者の方々も舌を巻くくらいで、その界隈ではちょっとした有名人でした。採集して資料化したものは、数も多くて私たちでは保管しきれないので、後にすべて千葉大に引き取ってもらいました。
本物ですね。
父は晩年、母と一緒に施設に入ったのですが、いつも見ていた分厚い植物図鑑だけは、最後まで肌身離さず持っていました。
そこまでいくとカッコいいですね。造園業ですから、お仕事にも関係はあったわけですよね。
関係ありましたね。父が誰より詳しいと知れ渡っていたので、役所の方にも、どこにどんな木を植えるべきかなど、よくいろいろ相談されてましたね。宮内庁の仕事もしていましたので、あちらにもときどき呼ばれたんですよ。昭和天皇は植物がお好きでしたでしょう。
二代目時代に手がけた荒川自然公園は、
会社の誇る代表作
初代もですが、二代目もかなりいろんなご経験をされてそうですね。
だと思います。
手がけられた代表的なお仕事というとどこを挙げますか。
やっぱり、荒川自然公園が一番でしょうか。
すごいですよね!広い公園に、白鳥のいる大きな池があって、せせらぎもあって、テニスコートとか、ゴーカートとかも。
下水処理施設の上にふたをして、造成したんです。そういう公園は珍しかったと思いますし、うちにとっては初めての仕事だったので、何度も慎重に打ち合わせをしながら進めていました。あそこは全部うちでつくりましたからね。私は現場のプレハブで、電話番やお茶出しのバイトをしたんですよ。たくさん盛り土をしたので、工事中は常に埃っぽかったのを覚えています(笑)。
1974年に開園とありますから、もう半世紀も市民の憩いの場としてあり続けてるのは素晴らしいです。私が行ったときも小さなお子さんを連れた方や、若い人が目立ちました。
そうですね。うちの代表作ですね。
バイトをされていたとのことですが、元々会社を継ぐおつもりで?
いえいえ、全然。兄がいるのですが、とてもやさしくて“押し”のようなものとは無縁の性格なので、経営者タイプではないからと、私の結婚相手が父から引き継ぎ社長になったんです。私自身が経営に関わろうとは考えたこともありませんでした。従業員にも恵まれて、無借経営だった会社を、ところがその結婚相手が、ダメにしてしまって…。
意を決して経営に乗り出した現社長、
「大変すぎて大変と感じるヒマがなかったからできた」
ダメに!?
お恥ずかしい限りです。すっかり任せていたものですから、知らないうちに。いわゆる放漫経営で負債を膨らませて、別の人の手に渡る寸前でした。
そ、それは驚かれましたよね…。
社会に出て働いたこともなかった私は、よほどなにもわからないと思われていたんですね。相談どころか一言の断りもなく、譲渡先まで決められていました。しかもそこは決して良いとは思えない会社でした。祖父の代から続いた家業を、従業員もいるのにそんなやすやすと渡せませんよね。いくら世間知らずの私でも、やるときはやるんです。離婚して、経営も交代しました。2014年のことです。
お話は至極ごもっともなのですが、思い切りましたね…。
そこからはとにかく必死です。頼りになる従業員はそんなバタバタの中で多くが離れて行きましたし、息子はまだ学生でしたし、公共工事の入札もオンラインで行う時代、私はパソコンを触ったこともないという有り様です。良かったのは、大変すぎて大変だと感じるヒマがなかったことくらいですね。考える時間があったら不安に押し潰されていたと思います。毎晩夜中まで、夢中で働きました。
すごい。ちょっと想像もつきません。それで会社を維持されたのですから立派というほかありません。
いえいえ、時代もあるにせよ、父のころに比べるとずいぶん縮小してしまい、負い目を感じています。
本格的にお仕事をされたことはなかったんですよね?会社の状態もマイナスからスタートして、なかなかできることではないですよ。
頑張る以外の道がなかったので。あとから振り返ると、父が私を子どものころから仕事にたびたび連れ回していたお陰で、どこか門前の小僧的なところがあったんですね。要所要所、勘が働くというか。それでなんとかやってこられた気がします。
我が道を転換して家業入り。
若き常務が切り拓く未来とは
ご立派だと思います。息子さん…現在常務の滋基さんは、どういった経緯で会社に?
彼は大学を出て、かねて興味のあったエネルギー関連企業に入社して働いていました。やり甲斐を感じて、順調のようでしたね。私としても、会社を継いでもらいたい気持ちよりも、本人の好きな道に進んでもらいたい気持ちが上回ってましたから、後継者としては諦めていました。ところが私が…、無理がたたったのか、大病をしまして。ICU(集中治療室)に入ったとき、「もうダメだ」と思い息子に頼みました。息子は渋々ながらではあるものの引き受けて、就職した企業を辞めて岩田造園土木に入ってくれました。
常務さんはこの業界に、多少は興味があったのでしょうか。
全然なかったんですよ(笑)。父は植物一辺倒でしたが息子は子どものころから魚一辺倒で、もともとそっちの道に進みたかったんでしょうが、受験で失敗したりして、もう一つ好きだったエネルギー分野を目指したんですね。
常務さんはさかなクンでしたか(笑)。
本当にそんな感じです(笑)。父が植物図鑑を買い与えても、「魚図鑑がいい」と、そっちばかりボロボロになるまで開いてました。魚を、自分で解剖までするんですよ。
解剖!
とある医学部も受かったんですよ。そのとき、「人間の手術も得意なんじゃない?」と冗談で言ったら、「人間のは無理」と一蹴されて、結局進学しませんでした。エネルギー分野のことを学んで、希望する業界に入りました。
みなさんそれぞれに、波乱、でしょうか。
本当ですね。息子も熱心に、私が言うのもなんですが、よくやっていると思うので任せています。仕事上も、やっぱり若い人は感覚が違うと実感することが多いんです。時代をつかんでいるのは若い人ですからね。ましてや一般企業での経験もあるのですから、私などが余計な口出しをしないほうがうまくいくと思っています。
徐々に息子さんに移譲されてゆかれるおつもりなのでしょうけど、どんな経営者になってもらいたいですか。
社会経験に乏しい私には足りてないからでしょうね、先の読める経営者、でしょうか。せっかく100年以上続いた会社です、ありがたいことに、若くてやる気のある従業員も入ってくれて、優秀な女性も働いてくれているので、いまの時代のあたらしい感覚も取り入れながら、先を見据えた経営でこの先も続けてもらえることを願っています。
インタビューを終えて
創業100年以上の老舗企業の数は、日本が最も、しかもダントツ多いのだそうです。そうは言っても、中小企業の場合、10年存続できる割合ですら4分の1というデータもあるようです。経済の危機はもちろん、震災も、なんといっても戦災もあったわけですから、100年続くというのは奇跡のようなものだと思います。近年のつまずきも乗り越えて、二十代のリーダーが、あたらしいビジネスの種を蒔き、可能性をつないでいます。
岩田あい子社長の趣味はレース編み。少女のころにお母さまから教わって以来半世紀以上になるそうです。作品を見せてもらうと、素人の仕事とは思えませんでした。植物博士にさかなクン、レース編み職人(笑)。個性は異なれど、打ち込むDNAなのでしょうか。宿命的に家業に翻弄されたところもあったかもしれませんが、みどり豊かな荒川区、東京都の担い手として、岩田造園土木と創業家の物語は続きます。
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